あなたが左に行くなら,わたしは右に行こう。
あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。
創世記13章9節
易しいかもしれないし難しいかもしれない質問だ。
信仰は見えるのか。 それとも見えないのか?
正解は見えないが、見えるである。
ちょうど風のように。
先週は信仰の本質について考えた。
<言われた&従って&こうして(ついには)>
生活の中で証明されない信仰は虚像だ。
信仰は決定的な選択の岐路において現れる。
アブラムとロトは苦楽を共にした。
しかし、経済的豊かさによって危機を迎えた。
このような事は人と人の間においていくらでも見られる。
時には神様との関係でも見られる。
アブラムは対立を解消するための対話を提案した。
それは交渉ではなかった。
自分の権利に対する主張でもなかった。
ある意味では自分が損をするという提案だった。
権利は大切だ。
しかし、権利だけを主張する社会は衝突が絶えない。
聖徒たちは世の中で生きていく。
霊的なものは死守しなければならない。
しかし、世の中のことでは損をし、譲歩の道を進まねばならない。
自分が自分のことだけを考えるより重要なことがある。
時には些細なことから譲歩して損をすることである。
アブラムの選択は損で終わらなかった。
ロトがアブラムを去ったあとだった。
神様はロトではなくアブラムを訪ねて来られた。14‐17節
卓越したようなロッドの選択は滅亡の町だった。
自分の目に自分がだまされたのだった。
目の前に見えることに対する欲の結果だった。
聖徒は堅苦しい人間ではなく、柔和でなければならない。
箴言11章24節
マタ 5章5節
イエスの人生は譲歩と分かち合いの人生だった。ピリピ人への手紙2章5~11節
イエス様は私を生かすためにご自分の命を譲歩して下さった。
〜真理を伝え、真理を守る〜
とねりキリスト教会
とねりキリスト教会は、東京都足立区にあるプロテスタントのキリスト教会です。
担任牧師:張清益(チャン チョンイク)牧師